高い山からの視点で力強く生きる

2024年04月26日

ちょっと高めの山に登ってみると、なぜか、湧いてくる意識がある。ゴールデンウィークは、山や川、海など、大自然に飲み込まれてみよう。浄化もでき、視点も変わることがある。子どもでも、何かしら効果あるかもしれない。

もうすぐ、ゴールデンウィークですね。

大いに、自然のところで、いろんな体験される、皆様も多くいてるのではないかと思います。

私も、海に行く計画しているので、樂しみにしています。


ところで、

今日の話は、私が小学生の時、大自然に囲まれて、一氣に目覚めた話しをします。

私が、初めて大きな意識が変わり、

高い山からの視点で、物事が見られるようになったキッカケは、

小学高学年の時、当時住んでいた那賀町にある、とても高い山(竜山)に、登ったことが始まりです。

小さい山は、しょっ中、遊んでいたのですが、

この竜山は、山頂まで、2時間ぐらいかかります。

しかも、朝方、夜明け前の真っ暗な、山道で、懐中電灯をもって、

お正月のみで、目的は、初日の出を見るためです。😊


友達同士だけで、登っていたのですが、元旦なので、結構、どこかの大人もいるわけです。

山頂付近に山小屋があり、ほとんどの人は、そこがゴールなのですが、私達、子どもは、その上の崖を登っていきました。

落ちそうでしたが・・・。

昭和って、そんな時代で、足腰も強かったんです。

そこら辺は、高原植物らしいものが、生えていて、変わったシダ類系の植物が、岩山のあちこちに生えていました。


途中で、近所の校長先生に会い、登り方を教えてもらいながら山頂につきました。

下を見ると、足がすくんで、めっちゃ、怖かった。

でも、遠くを見ると、絶景で、勝浦方面や阿南方面まで、見渡せるんです。

なので、橘の発電所や海までも見えるのですよ。


それで、山頂から下を見ると、自分たちの住んでいる町が、違う世界の下界に見えたわけです。

家々は、ほんの小さな点や、小さな砂利。

それで、「はっ!」と

吹っ飛んだんです、今までの考え方が。


実の父が、亡くなってから、私の家庭は問題が、ありすぎて、子どもからすると地獄だったと思います。

それが、山頂に登って、下を見たとき、家々が点や、砂利だと、わかったとき、アホらしくなったのです。

ほんとうに、自然からすると、人間のやってること(ネガティブなこと)は、ちっぽけに見えたんです。


子どもの時に、下界について、目が覚めたので、

その後の学校生活でも、先生のやってることや、発言、大人達の行動や発言などの真意も、

敏感になって、小中学校システムなども、この世界は、おかしすぎると思うようになったのです。


当時は、テストの点数や名前も張り出されていましたし、バリバリの有名学歴社会でした。

先生の暴力は、日常茶飯事で、子どもの私から見たら、ただの権力者の支配を子ども相手に、振りかざしていたバカな大人と見えていたわけです。


そして、当時の高校も、ヤンキーは、たくさんいました。

ヤンキーに、憧れるのもわかりますが、私は、ヤンキーでさえも、ため息をついてました。

当時は、理不尽な時代だったので、氣持ちは、わかりますが、暴れても、先生達に威嚇しても、大きな視点で見ると、意味が無いんです。

ほんとうに、ドラマのような、ことも、よくありましたね。

私は、俯瞰してみているほうでしたから、今思うと、懐かしいですが。

みんな元氣にしているかなぁ~。(元ヤンの同級生も含めて)


それで、その暴れる時間や、反抗して『ツッパリ、ロックンロール』😊している時間が、もったいないのにとも思っていました。

自分の人生の時間の一部を、ネガティブに使うのは、はんとうにもったいないと思ってました。


なので、私は、高校時代は、ひとつの部活に、こだわらず、3つ、自由にかけもちしていました。

卓球部、郷土研究同好会、演劇部です。

いろんな経験をさせてもらった。😊


郷土研究同好会は、忌部山古墳の発掘調査で、夏休みに泊まり込みで、行いました。

山の中で、一週間、樂しかった。

余談ですが、現在、古事記ブームで、阿波の忌部氏は有名になってきましたが、うれしいことです。

今思えば、その忌部氏の古墳を発掘調査に参加できたことは、偶然ではなく必然だったのではないかと思えています。


今の高校生の多数の人は、部活の制限を自分でかけていると思います。

ほんとうは、自由であって、やりたいことをやったら良いし、

興味持ったら、学校から飛び出して、社会の中でも學ぶこともできる。

また、仕事をしたかったら、アルバイトしてみたらいい。

学校が、アルバイトを禁止しているところがあるが、私には、意味がわからない。

大学への学業が、おろそかになるというが、

大学に行かない子にとっては、アルバイトは、社会勉強にもなる。

はやく、自立できる感覚を持たせることの 何が行けないのだろう?


こうやって、今の教育は、保育園から高校生までの長い間、がんじがらめにしているように思えるのは、私だけだろうかな?

「ダメ、ダメ、ダメ。」と、こんなことを子どもに押しつけていると、

あまり体験させないので、何も自分で考えて、自分で生み出すことができなくなると思う。

と、山から下へ叫びたいですけどね。😊


でも、大人達が、こんな支配とネガティブな管理をずっとやっていると、これも因果で、いつか解消させられる時がきて、やっと氣づくのでしょうけどね。


例えば、地震が来て、家が壊れて、被害を受けて、やっと、日常の有り難みに氣づく。という感じで。

まぁ、人間は、災害なんてのは、絶対、イヤですからね。

だから、前もって、「備えあれば憂いなし」で、物質的な備えではなくて、心構えの精神だと思う。

『生き方そのもの』


日頃から、物事を多角的に見たり、離れたところからの視点や、上から見た視点などで、

俯瞰して見ることで、パニックにならないし、「なんてことない!」と力強く生きていくことができるのではないかと思うのです。

これには、やはり、時間のゆとりも、ある程度、必要だし、やっぱり、大自然に囲まれるのが、人間の思考の浄化もはやい。


だから、教育というものは、主は、『生きる力』を根源にして、生活の知恵や哲学が、数学や自然科学、歴史、言語学、天文学、文化、東洋的医学など、あらゆる方面の学びになると思うのですが、

要するに、地球を知る学びの旅。

『競う』という行為も、波動的に見て、どうかな?と。

競うより、『助け合い』でしょ。

注※(子どもの一時的な遊びの中の軽い競いは、盛り上がりで良いと思いますよ。お互いが樂しかったらの場合。)


斎藤一人さんが、かつて本に書いてあったのを思い出しました。

斎藤一人さんのアドバイスで、

学校でのテスト中で、わからないところがあれば、

わかる子が、わからない子に、教えてあげるというのを導入した先生が、おりまして、

『みんなが100点』という感じで。

そんなことをやっていくうちに、そのクラスの勉強のレベルが、グ~ンと上がったそうです。

そんな先生が増えれば良いですね。😊

そしたら、通信簿も、みんなオールAなので、お祭り氣分です。


こんなことを考えるのは、変人の私だけかなぁ~?

とくに、教科書より、体験の學びの方が、吸収のスピードがあるよ。

『案ずるより産むが易し』というからね。

こうやって、ことわざを使うとき、日本語って、すごいなと感心させられてしまう。


ということで、同じような事を思っている人が、いれば連絡ください。

かなり、私は、同世代の中でも、変人だと思いますが・・・ね。😊

皆で、これからの心地よい場所を、子ども達に残しましょう。

できることから、自分の範囲で、無理をせず。


話しは、それまくりましたが、ゴールデンウィークは、思いっきり、樂しんでみてね!

私達は、地球さんに、宇宙さんに生かされているし、一人一人の創造できる宇宙が、自分の中にあると言われています。

誰にもじゃまされない、自分の中の宇宙。

せっかくなら、ポジティブな方向に、想像と創造してみよう。


それではまたね!

本日もおばあさんのつぶやきブログを読んでくださりありがとうございました。